ももんじ通信

ライフログ的なにか

岩井俊二監督は生涯思春期なのかもしれない

予告を見て気になっていた岩井俊二監督の「ラストレター」。封切り日の朝に監督のツイートを見て、行ってきました。

これまで何作品も岩井監督の作品は観てきたのですが、映画館で公開中に観られたことがなかったので「行かねば」という焦燥感がありました。自分の作品のことを「娘」と表現するのもなんかぽいなあと思って。

 

ラストレター (文春文庫)

ラストレター (文春文庫)

 

 

岩井作品は、出てくる人物が思い思いに好きなトーンで話したり、台詞のない人物のある風景画のようなシーンがあったりと画面から少しでも目を離すと、それだけで解釈が崩れてしまう要素が強いので、自宅で観るときには完全に映画の時間分ひとりで集中できる環境を整える必要がありました。

その点、映画館だったら上映時間の間映画だけに集中できるし、家だと生活音で拾いにくくなってしまうセリフもしっかりと聞くことができました。岩井作品って、とても映画館向きの作品だったんですね。

暗い映画館で観た「ラストレター」は、高校生の時に夜中電気を落とした部屋で、パソコンの小さな画面で見た「リリィシュシュのすべて」や「打ち上げ花火、下から見るか横から見るか」や、夕飯を作りながら観ていたら結局家事の方を放り出して観てしまった「リップヴァンウィンクルの花嫁」での映画体験を思い出させてくれました。あの頃からずっと岩井俊二の作品は変わってないのだなあ。

日本映画を見始めたきっかけは、ほとんどサブカル文学クソ女の「観てたらなんかかっちょいいよね〜」が原動力なのですが、その「かっちょいいよね〜」と思う思春期の心に、岩井俊二の作る思春期の世界はまっすぐブチ刺さったわけで……。

今見ると、思春期の思考で塗り固められた世界はあまりに自意識自意識しすぎていて息苦しくて恥ずかしい。だけど、それがあまりにリアルで嬉しいのでした。

この作品には厳密に「大人」は出てきません。成人し、親になった人間までも含めた全員が全員、今の自分が至上で、今の自分の悩みが全てで、だから自分のために行動する人々です。だから、発する台詞はどこか気取っていてどこかわざとらしい感じがして、それがものすごく見ていて恥ずかしい。まるで観客である自分の隠している部分がさらされているような感覚。

これに近い感覚は、村上春樹の『海辺のカフカ』を初めて読み始めた時にも強く感じました。(耐え切れずに読み進められず、しばらく後に読了)

 

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

  • 作者:村上 春樹
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2005/03/01
  • メディア: ペーパーバック
 

映画の中に登場する、「相手になんの影響も与えない人間でいるよりも、相手の人生に加害者として大いに影響を与えることの方がよほど価値がある」という考え方は妙に腑に落ちてしまった。あまりに肌に合う考え方で、ひとつの真実だよなあと妙に納得。

人が死ぬ瞬間というのは、認識される瞬間まで訪れないというのが個人的に思うところで、いつに亡くなった人でもその人が亡くなったことを知らない人にとっては起こっていない出来事でしかない。

話で聞いたとしても、ほんとのほんとにその人が居なくなってしまったのかどうかは確認できないわけで……。初恋の人の訃報にふれ、さらにはその祭壇に対面してしまう瞬間というのは、いちばんまざまざとその人の死を突きつけられる瞬間だと思います。変わらないままの姿の写真と、瓜二つの娘。絶対に許しがたい男に浴びせられた、もっともなことであるからこそ辛辣で残酷な言葉。この、狂おしいまでに完璧な25年越しの失恋があまりに悲しかった。