ももんじ通信

ライフログ的なにか

世界で一番私と気が合う人間は、私だ。

大学で卒業論文を書いている時に、出席していた授業の教授が、「読む相手のことを想定して書きなさい」と言っていたのを覚えている。読む相手、の最たるものといえば自分の指導教授で、これを見せた時に先生がどう思うかな?と頭の中に「研究を楽しむ先生の視点を持った自分」を置いて書きに書き散らした(その出来はともかくとして)。その後、塾講師として高校生に小論文の指導をする中で、何度も何度も「弟や妹、いないなら学校のなんにも知らない後輩に話してるようなつもりで書いてごらん」というセリフを飽きもせず言い続けたこともあった。要は、自分の中に他人でかつ、何も知らない自分を置いて、そこに話しかけてごらんよと伝えていたわけです。

なんでこんな簡単なことを忘れていたんだろうか。

例えば、私は趣味で落語をよく聞きに行くのだけど、古典落語には「この話の中にはこのギャグやフレーズが入ってるのが好きだな〜」ってところが必ずあります。ひとつの話の中にそういう部分が何個もあるので、好きなフレーズが入るのかどうか、ちょっとしたスタンプラリーをしているつもりで落語家さんの話を聞きます。好きなフレーズが入っていなくても、新しい工夫に出会えることもあるし、示し合わせたように好きなところが一個も入ってないこともあります。落語会では、終演後に打ち上げがあることも多く、畏多くも高座を終えたばかりの演者さんと食事を囲むことができる会もあるのですが、そんな会で率先して落語家さんに落語のダメ出しをするお客さんがまあまあいます。それを側で聴きながら、私は「うるせー」と思っているわけです。その演者さんのためを思って……とそのお客さんは言っているのでしょうけども、結局その人は自分の感じたように相手を動かしたいという欲求に従っているだけなのだと、見ていてよくわかります。落語の感想なんて「面白かった!」「良かった」「あそこがとくに良かった!」くらいで充分だというのが個人的な考えです。

なんでこんな落語会の愚痴のような話を始めたのかというと、そういう場でなぜ自分が自分の好みを相手に押し付けたくないかって考えた時に「自分がプレイヤーでないから」という答えが1番に出てきます。自分がプレイヤーであっても、相手と自分は違う人間だからできるアプローチは別なので、多分アドバイスはしないんですけどね。

今回、『読みたいことを、書けばいい』を読んではたと思ったのは、私は私のことが大好きで、私の好みを世界で一番信頼しているということです。だから、自分が好みで好き!と思ったことについて、気兼ねなく人に「私はこれが好きなんです!!」と、主張することができます。だから私が、私が読んで楽しいように文章を書くことができればそれって最強なんじゃない?ってことです。

よく「日本人として日本語を母語として暮らしている以上、成人する年齢くらいだったらまあまあまともな文章が書けるだろう」という勘違いが取り沙汰されることはありますが、幸にして人よりも多少は文章を書いてみることが好きでこれまで生きていたので、文章を書く上では、私は一応「プレイヤー」の端くれだと自称できなくもありません。プレイヤーとして自分の文章に自分としてダメ出しができれば、それってとっても面白いことなのでは?というのが私の最終結論です。

さて、『読みたいことを、書けばいい』の中ではもうひとつ重要なキーワードが登場します。それは「調べる」ことです。スマホを使うようになって、調べるという行為は1日に何回もやるわけですが、本気になって一次資料にまで当たって調べるということはあんまり普段はやらないですよね。端から端まで物事を調べるという行為は難しそうに見えて、意外と簡単なんですが、それが簡単であるということを知っているだけでやろうとしない。

みんながみんなそうなんだから、ちょちょっと調べて深めた知識が「私が読みたい」ものに仕上がっていくのは自明の理だと思います。

これまでなんとな〜く検索して分からなかったあれやこれやが急にとても魅力的なものに見えてきて、とても嬉しく思います。

 

読みたいことを、書けばいい。 人生が変わるシンプルな文章術

読みたいことを、書けばいい。 人生が変わるシンプルな文章術