ももんじ通信

ライフログ的なにか

しゃくれた文章

映画のセリフみたいな言葉を言うときに、気恥ずかしさを感じて話し方がしゃくれて喪黒福造みたいになってしまうことがある。自分でもそう感じるし、他の人が「あ、いまこいつカッコつけてるな」というセリフを吐いている時も、喋り方が喪黒福造みたいになっているのを感じる。

喋り方だけじゃなくて、文章もしゃくれて話しているみたいな調子になることがある。仕事柄、大学生や中高生の書いた文章をとにかくたくさん読むのだけど、大体みんな喪黒福造になっている。その原因は多分、いつもよりかしこまった言葉や話し方を文章の中でしようとしてしまうことにあるのだと思う。

文章がしゃくれてしまうことについて考えたきっかけは、自分のブログの記事を読んでいるときに無理にカッコいい言葉を使いたがってしゃくれまくってたことだった。気づいた瞬間はすごく恥ずかしく、喪黒福造を脱却しようと話し言葉に近い形で、変に難しい言葉をガチャガチャ組み合わせずに書こうと心がけている。

わたしが世の中で一番しゃくれてないなと思う文章は、書評家の人が書いた書評だ。小学生から始まって、今の今まで読書感想文でご飯を食べている人たちなのだ。そんな文章になるはずはない。

ただ最近、彼らの文章が歪んでしまう瞬間があることを見つけたので報告する。

それは、彼らが「自分」について文章を書く時だ。書評家の書くエッセイは、普段自分の外にあるものを書くのに慣れてるせいかどうもしゃちほこばってしまうようだ。

勝手な感懐だが、なにかを批評するときの文章のしゃくれはずっと書いているように喪黒福造みたいな喋り方で頭の中で再生される。そして、何故だか時々中尾彬さんの声でも再生される。では、中尾彬さんが常になにかを批評しているわけではないのだから不思議なものだと思う。