ももんじ通信

ライフログ的なにか

語り語られ、落語の可能性

 先日、立川志の輔師匠の独演会に足を運んだ際に思いがけない新作落語を聞くこととなって感激した。

時は江戸時代、罪人が島送りにされる護送船・高瀬舟の中で同心である庄兵衛が弟を殺したという男、喜助が語り出す咎を聞く。

言わずもがな、森鴎外の『高瀬舟』をベースにした。いや、そのものを読み上げる新作だった。

安楽死や足るを知るというテーマで語り出されることの多い本作だが、ショッキングなシーンが登場するにもかかわらず登場人物は語り語られ相対する二名のみである。
わたしはこの作品がよもや新作落語になるなんて考えた事がなかった。志の輔師匠が庄兵衛になるとき観客は喜助になり、喜助になるとき庄兵衛になる。そんな語り語られの関係を体感する文学体験は非常に刺激的だった。
思えば、近代文学の多くは語りの文学、あとの祭りの文学だ。
『こころ』で先生がみるのは、喉を搔き切るKではなく襖の血の跡で、太田豊太郎が目覚めるときにはすべての片がついている。
当事者は当事者たることが出来ずに、ただ誰かに語ることしかできない。
それはとても落語に似ている。

落語の中に『しじみ売り』という演目があるが、これはあるところであった事件を少年が語り出すところから始まる。当事者でありながら事件の蚊帳の外で物語はすすみ、蚊帳の外でストーリーが閉じる構造となっている。

また同じように人情噺『ねずみ』では、仙台の宿場で1番小さい宿「ねずみ屋」が、なぜねずみ屋になったのかという騒動を主人が語り出す、これもまた蚊帳の外の文学である。
古典落語のストーリーラインの多くは、誰かが『その場以外の何か』を語り出すところから始まる。そして、そのまま粛々と幕が閉じる場合もあれば、登場人物が語りの中に、ストーリーラインの中に身を躍らせて入り込み、まさに当事者として振る舞うこともある。そこに突如として、デウスエクス・マキナが登場することさえある。

語る落語、語られる落語。語りを超えない落語、語りを超える落語。

語りの可能性、新しい文学体験についてじっくり考えさせられる一席を体験できたことを光栄に思う。

 

山椒大夫・高瀬舟 (新潮文庫)

山椒大夫・高瀬舟 (新潮文庫)

 

 

志の輔の背丈

志の輔の背丈

 

この記事は2017年4月27日にブクログに投稿したものに加筆した書評です。

 https://shimirubon.jp/users/1673781